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E-Conception.org「アロマの部屋」:福島麻紀子のエッセイ/双子育児日記「ダブル・トラブル」
ダブル・トラブル?!
(育児エッセイ その5)


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6ヶ月めのリサとカレン
(横にいるぬいぐるみは、デンマークの子供番組のキャラ、バムサとクーリン)




育児日記の続編です。

今日は桃の節句。シドニーは夏から秋へ向うところでして、初春の風情もなにもあったもんではありませんが、とりあえずお雛様をピアノの上に飾ってみました。私のお雛様はいちおう立派な七段飾りだったんですが、私が離婚した時に「もう孫娘は出来ない」と諦めた母が、お内裏様とお雛様以外は処分してしまったそうです。生き残ったお内裏様とお雛様は、父のスーツケースに潜り込み、海を渡ってカレンとリサを守りに来てくれました。




おかげさまで、ますます大きく、ますます可愛くなってきました。顔もずいぶん変わるものですね。だいぶ人間らしくなったと思いませんか?

私は本当に親バカで、生まれた瞬間から「まあ、なんて可愛いんでしょ!」と思い、その後も毎日のように「まあ、なんて可愛いんでしょ!」と思い続けているのですが、今から生まれたての頃の写真をみると、「おお、こりゃ猿以外のナニモノでもない」というブサイクな顔でして、こんなのが可愛く見えたってことは、やっぱり親バカなんだろうなあと思わざるをえません。だから、今でも「まあ、なんて可愛いんでしょ!」と思うたびに、「バイアスかかってるんだろなあ」と疑ってしまうのです。
でも、本当に可愛く見えるんだから、しょーがないっすね。

すでに7ヶ月半なのですが、まだ成長は留まるところを知らず、2人とも9キロ近くいってます。よく食べて、よく遊んで、よく寝て、よくうんちして。たったこれだけの単純なことが思い切り出来たら、子どもって放っておいても育っていくんですねえ。私たち大人も基本は同じなんだけど、日常の些末なことについ気をとられて忘れてしまいがちです。我々ももっと、食べる、運動する、眠る、排泄する、という自然の営みを重視すべきなのかもしれません。





仲良くやってます


相変わらず、手のかからない人たちです。6ヶ月くらいからは、生理的欲求さえ満たされていれば、放っておいても2人でそれなりにおとなしく遊んでいてくれます。お互いの口に突っ込んであるダミー(おしゃぶり)を引っ張って抜きあったり、おむつやおもちゃを取り合ったり、おしゃべりしたり。ときに、パンチやキックを食らった相方が「うえ〜ん」とヘルプを求めることはありますが、まあ、こんなもんでしょ。

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おててつないで、コテッ
それと、お互いの顔を見合わせながら「ふっふっふ、うっへへへ、ひゃははは」と笑い合うことがあるのですが、これ、大人が介入しなければどんどんエスカレートしていって、ちょっとばかり気味が悪い(^^;)。そして、こっちが忘れた頃に気が付いたら、2人してコテっと寝入っている、なんてこともよくあり、「なんて世話いらずなの?!」と驚かされます。

言葉もずいぶん発するようになっているのですが、もちろん意味と発音の関係まではまだ意識していないでしょう。

ところで、私、ちょっとした発見をしてしまいました。機嫌のいい時は、K、J、P、B、Dなどの音を出すのに対し、機嫌のよくない時は、M、Nといった音をよく出します。健康診断に通っている看護婦さんによると、「9ヶ月になるとダダダダ(つまりダディの意味)、ママママ(マミィの意味)を発声するようになる」というのですが、今でもすでにやってます。でも、まだ、マミィとダディのつもりで言ってるわけじゃないと思うんですが。

これを総合して考えてみると、ダディという音は機嫌のいい時に出す音で、反対にマミィという音は機嫌のわるい時に、いわば「ヘルプ信号」「警報アラーム」として出す音なのです。女親はいざという時のヘルプに呼び出され、男親は遊び相手として認識される、とも言えそうで(英語の場合だけかな)、なんだかなあ、男親は「いいとこ取」してるみたいでずるいじゃんかよ、という気もしてくるのでした(^^;)。ま、どうでもいいのですが。





ところで、またまたどうでもいいことですが、赤ちゃん言葉について。
私は、自分の子供が生まれるまでは、なんでまた大人が子供に向かってわざわざ高い声で、赤ちゃん言葉を使うのか?と不思議でした。「あ〜ら、かわいいこでちゅね〜」とか「おちりきれいちまちょ〜ね〜」とか。そうやって子供に喋りかけている人を見ると、もう体じゅうがむずがゆくて、「だーっ、ふつうにしゃべれんのか、キミは?!」と突っ込みを入れたくなったものです。ところが、どうでしょ。自分の子供が出来てみると、やってるんだわ、恥ずかしげもなく。 

なんでかというと、そもそも赤ん坊というものは周波数の高い音に反応しやすいらしく、高い声で抑揚をつけて歌のように声をかけると、笑ってくれたりするのです。だから、赤ん坊をあやす時には自然とそういう恥ずかしい声、恥ずかしい喋りかたをしている、という結果になる。それと「まんま」や「ぶーぶ」といった赤ちゃん言葉は、発音練習途上にある赤ちゃんにとって、発音しやすい音で意志疎通することができる、赤ちゃんにとって「便利な言葉」でもあるのですね。あれは実用に即したものだったのだ、と気付くわけです。

それと、やっぱり、かわいいんですわ。かわいいから、思わず、かわいげな言葉を使ってしまう、というのも立派な自然な摂理だと思うようになりました。ハタから聴いたらアホみたいだけど、それが子供たちとコミュニケートする立派な手段なのだから、恥ずかしがることもないわな、と。





ハイハイはもう今日明日にもはじめそうな雰囲気ですが、もう一息ってところ。寝返りとズリズリだけでも、ずいぶん行動半径は広がっています。放っておくと「え? あんた、こんなとこに居るの?」とビックリすることもあります。そろそろコンピューターの周辺にバリケードを張らないと、ケーブルいじくられて、いきなりデータが飛ぶという惨事が起きそうです。やれやれ。

ズリズリ行った先でホコリでもゴミでも紙でも虫でも草でも何でも口に入れてくれるわけですが、これは「免疫入れてる」と思って親は開き直っています。せっかく興味があるのだから、口に入れて確かめたらよろし。私は怠慢で1週間に1度も掃除しないので、子供たちはお腹から足からホコリだらけになったりしますが、我が家の自動掃除機ってことでモップ代わりに重宝がっています(^^;)。3ヶ月くらいから、ダミー(おしゃぶり)を床に落とすたびに、ホコリ付いたまま吸わせてきましたから、もうちゃんと免疫できてるでしょう。

「きたない」「不潔」とかいって過保護していると、共生菌にも耐えられないような弱い子になっちゃうんだと思います。喉にモノでも詰まらせない限り、舐めたいものはみんな遠慮なく舐めていただこうと思っています。





ダディの体臭、大好きです


さて、前回「子どもの汗の匂いが、夫の脇の下と同じ匂い」という話を書きましたが、その後、面白い実験結果が出ているので、ご報告したいと思います。

ずいぶん小さい頃から、グズって寝ない時に夫が添い寝すると寝入ってくれるという法則を発見しまして、それも、脇の下にもろ顔をあててスヤスヤしているのですね。「もしかして夫の体臭が、リラックスするわけ?」と思い、夫の着ているシャツを脱がせて、グズる赤ん坊の顔に置いてやったところ、グズがおさまって寝入ってくれるのです! 「こりゃ夫の体臭をエッセンシャルオイルにして売り出すべきか?!」と思うくらい、本当によく効く。

ある日、夫の外出中にまたグズりだしたので、昨日夫が着ていたシャツを洗濯カゴから取り出して置いたところ、これは効かなかった。どうやら「フレッシュな香り」じゃないとダメらしいんです。おそるべき体臭! やはり、我々は動物なのだ、ということを再認識させてくれた、「アロマ人体実験」でありました。





自我だってあります


7ヶ月に入る頃から、自我が芽生えだしたと見えて、「人見知り」も時にするようになりました。また、大人たちと一緒に過ごしたい、仲間でいたいという意識が出てきたようで、眠いのに眠い目をこすって、一生懸命起きていようとします。ベッドに連れていくと「わたしはまだ眠くないの! もっと遊びたいの!」と主張します。でも、この主張に騙されて、遊ばせておくと、あとあと疲れすぎて更にひどくグズることになるので要注意。眠そうだったら、とっととベッドに連れていったほうがいいですね。そして、多少泣こうがわめこうが、無視する。すると、そのうち諦めて寝入ってくれます。

この技、こちらでは「クライング・コントロール」なんて呼ばれています。「赤ん坊が泣いても無視しろ」という荒業なので、なにかと議論になるのですが(愛情に飢えた人間になるとか、精神構造に支障を来すとか)、私もまだ子どもが小さいうちは「ちょっとそれは、いくらなんでも・・・ 」と抵抗がありました。
でも、7ヶ月くらいからは、試す価値あるなあと思うようになりました。その代り、ちゃんと事前に、おむつや体調などに問題がないこと、泣いている理由が「まだ起きていたい、遊びたいから」であることを確認しておくことが必須だと言われます。それに加えて、眠くなるまでの間は思い切り遊ばせること、一緒に遊べる時間は全力で付き合ってあげることも、大事なんかなと思います。




これと似たようなことで、夜中にグズグズ言い出す時。これも6ヶ月を過ぎた頃からいちいち呼び出されるたびにアテンドせずに、放っておいたほうがいいことに気付きました。結構うるさいので親は結局起きてしまうのですが、「夜泣き」だと思ってあやしに行ったりしていると、その分クセになって悪化していくようです。

ある晩、夫婦2人して、眠いし面倒臭いからと放っておいたら、ある一定期間わめいたあと、自分でおとなしく寝入ったので、「なんだぁ、自分で処理できるんじゃん」と思ったわけです。彼らも完全に目が醒めているわけではなく、半分眠ったままだったりするので(悪夢でも見てうなされているのかな?)、私たちがアテンドしてしまうと、せっかく寝ていたところを起してしまうことにもなるんじゃないかと。それで、夜泣きを無視するようにしたんですが、そしたら1週間ほどでコロっと治っちゃいました。

親の心配をよそに、彼らはどんどん成長していて、自分のことは自分でケアできるようになっているのでしょう。これで、一人で食って、一人でトイレ行ってくれたら、楽だろうなあ(^^;)。





離乳食、おいしいね


自我が芽生えてきたとはいえ、今のところはまだ、彼らの生理的な欲求にタイミングよく付き合ってやることが大事みたいです。我々大人だって、うんちはしたい時にしか出ないもの。命令や計画で出るものではありません。
それと同じで、人間というのは本来、眠りたい時に寝たらよく眠れるし、食べたい時に食べたらよく食べられる。それを、眠くもない時に無理矢理ベッドに連れていかれたり、食べたくもない時に無理矢理哺乳便突っ込まれたりするから、たとえアカンボとて機嫌が悪くなるわけです。

だから「もう8時間も経ってるからミルクあげなくちゃ」であげても、飲んでくれなかったりするので、「おなかすいたよ〜」と訴えはじめるまでは放っておく。「眠たいんだけど、まだ寝たくないよ〜」アピールだけは注意しなければなりませんが、とにかく相手の主張を聞いてあげて、タイミングよく対応してあげることがコツみたいですね。


離乳食もこれとまったく一緒。相手の欲求の読み取りがイノチですね。

こちらでは4ヶ月から「ライスシリアル」という、名前からして一瞬おかゆかなと思うけど、実は米粉みたいのにミルクを混ぜたものでスタートするのが一般的なんですが、ウチは5ヶ月まで放っておきました。夕食時には一緒に食卓を囲わせていましたが、特に食べ物に興味を示しているふうでもなく、ミルクで十分しあわせそうだし、成長しているので、世間の常識はこの際無視することにしました。プラス、「離乳食はじめたら、汚れるしメンド臭い」というレイジーな親の言い訳もあったりしますが(^^;)。

5ヶ月でちょうどおっぱいをやめ、その頃から例の「ライスシリアル」を試してみましたが、ウチの子たちは受け付けません。だって、これ、超マズイんだもん。こんなの私だって食べたくないわ。そう思ったので、ジャガイモやカボチャをマッシュしてミルクを混ぜたものをあげてみたけど、これもイマイチ評判がよくない。で、そのうち、私たちが食べているバナナに興味を示しているようなので、その場で手ですりつぶしてあげてみたら、「うまい!」と食べはじめた。「もっとちょーだい」「もっとちょーだい」と、あれよあれよという間に、バナナ半本くらい食べちゃった。

そんで気付いたのですが、看護婦さんや育児本が勧めるように、素材にミルクを混ぜるよりも、素材そのもののほうが喜んで食べるんですよ。ウチの子たちは、もうはじめからそう。ジャガイモなら、ゆでたまんまがいいし、お魚なら焼いたまんまがいい。変に手をかけるよりも、そのほうが喜んで食べる。




それから、あげるタイミングが大切。そこそこお腹が空いていて、でも死ぬほど空いていない時、よく眠ったあと、よく遊んで機嫌がいい時、そういう時が狙い目です。うんとお腹がすいてると「とにかくミルクよこせ〜」になるし、おなかがすいてなければ食欲がないし、機嫌が悪ければ当然食べるどころじゃない。

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ハインツ、おいしいね
親の心構えも影響しますね。コツは「親が勝手に目標を設定しないこと」だと思います。「今、何ヶ月だから、これくらいの量食べてないとダメ」「今日食べるべき量は、スプーン5杯」なんてふうに考えないほうがいい。ほんと、その日によって食べる量も、好むものも全然違うので、親の思い込みを押し付けると悲劇になります。

私たちだって「今日はなんとなくサッパリしたもの食べたいなあ」という日に、ステーキなんか出てきちゃうと食欲減退しちゃうでしょ? あれと同じことだと思うんですよね。
食べたくないものは食べたくない。でも、2時間後とか明日になったら、また食べたいかもしれない。そこらへんを臨機応変、柔軟に対応してあげると、親も子もパニックにならずに済むと思います。

あと、離乳食をあげていると、親としては「あーん」と子どもの口を開けさせることだけに神経が行ってしまいがちですが、子どもの顔全体、様子全体を見ていると、スプーンをもっていくべきタイミングが読めるようになります。口だけ見ていたって、食べたそうかどうか分かんないもん。全体の動きをよく観察していると、「あ、今なら食べそう」というのが、ある程度読めるんですよね。って、時にスカシを食らったりもしますが。




「食事は文化なのだから、楽しく食べさせるべき」とか言われますが、私の場合、食べることが大好きなので、食べることの喜びを知って欲しいっていう思いがあります。イヤイヤながら、ツライ思いしながら食べるくらいなら、食べてくれなくて結構、と思っちゃう。彼らにとっては、すべての味が「はじめて出会う大冒険」なのだから、馴染むまでに時間がかかって当然だし、そこに量や頻度の基準みたいな押し付けを持込むのは不自然だし、子どもが気の毒だと思います。それに、彼らにしても、彼らの体が消化できるものを選び取っているわけですから、彼らの意志に従ってあげていれば、まず体調は崩さないと思うわけです。

そういうわけで、今のところ、ウチではハインツのベビーフードが大活躍をしています。最初は手で作ったりしていたけど、かえってこれやると食べてくれない。その原因は、ひとつには「折角作ったんだから食え〜」という親の思い入れ、押し付けがどうしても入り込むこと、そして、はっきりいってベビーフードのほうがおいしいこと、にあると思います。

こういうと、「手抜きママ」というレッテルを貼られるかもしれませんが、まあ、そのとおり手抜きしているので貼ってもらっても構わないのですが(^^;)、ほんとベビーフードはよく出来ていますよ。さすがプロだけあって、赤ちゃんの好みをよく押さえている。私が下手に作るよりも、よっぽどヒット率が高いし、私が食べてもおいしい(私はもともと超薄味の人なので、調味料が入っていないベビーフードの素材の味がとても馴染むのです)。それに、バラエティも豊かだから、毎日とっかえひっかえしていれば、栄養面でも問題ないでしょう。
もう少し大きくなったら、私たちと同じものにちょっと手を加えたものを食べるようになるでしょうが、今しばらくはハインツさんにしっかりお世話になるつもりです。






文系カレンと、理系リサ


2人の個性の差はますます顕著になってきました。

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わたしたち、色っぽい?
おしゃべりカレンは相変わらず社交的。孤独を嫌い、愛想がよく、人を好む反面、自我の芽生えも早めなのか、人見知りもする。甘えんぼさんで、年相応に赤ちゃんっぽくもあるのだが、しゃべり方や表情などかおしゃまでもある。とにかくよくしゃべるので、将来は、保険の外交員か、ホステスさんか。でもホステスさんは頭よくて聞き上手じゃないとダメか。これだけ発声練習していれば、歌は上手になるかもしれないなあ。それにしても、にぎやかっつーか、ハッキリ言ってうるさい(^^;)。

一方、リサは、ますます我が道を突き進んでおります。この人は生まれつき「リサ・ワールド」を持っているらしく、他人のことはあまり気にしません。放っておいても自分なりに課題をみつけ、静かに実験、観察、研究を重ねていたりします。また、新しい「体位」の挑戦に熱心なのもリサのほうで、たぶんカレンより先にハイハイはじめて、歩き出すんちゃうか?という気がしています。

なんとなくボーイッシュな感じがして、ダディに似てる。もう少し大きくなったら、ダディの子供の頃のように、目が離せないいたずら小僧になりそう。どういうわけか、私はこの子には「暴走族」がとっても似合いそうな気がしてなりません。

ところで、どうでもいいことなんですが、この左のヌード写真に色気を感じるのは私だけでしょうか?





新米マミィの子育て論


まだアカンボと付き合って7ヶ月しか経っていない新米ママがエラそーに言うのもナンですが、私にはそれなりの子育て論があるんだなあってことに最近気付きました。
いや、「論」というほど体系化しているわけじゃないのですが、何につけ、方針がそれなりにあるんですよね。夫に「いつの間にそんな子育て論を構築したんだ?」と聞かれたりするんですが、別に教育書や育児書を勉強したわけでもないのです。言ってみれば、今までの人生から学んだことの総集編みたいな感じかな。

基本は簡単で「親の価値観や世間の基準を押し付けない」ってことです。つまり、「子供は各自の意志があるのだから、自分が育てている、というおごりを持たないようにしよう」ということですね。主人公はわたしではなく、やつらなのだ、と。言葉で言うのは簡単そうですが、実践しようとすると、そう簡単ではなかったりする。というのは、周囲の情報やサポートがわりとプレッシャーになってしまうんですよね。




たとえば、「○ヶ月の赤ちゃんは、身長が○センチ、体重が○キロで、○○ができます」みたいな「基準」はどーだっていい。まあ、最初の頃はちゃんと育っているか(私たちのやり方が間違っていないか)不安でしたから、参考にはしましたが、もう半年もたてば親としての自信もついたし、ちょっとやそっとで死ぬことはないだろうし、もういっそのことそーゆー細かい「基準」は無視して、彼女たちの成長をを見守りたい。

でも、健康診断を受けに行く看護婦さんにも、基準をやたら持ち出す傾向があって「4ヶ月になってるのに、まだおもちゃを取ろうとしませんねぇ、もう少しおうちで練習してくださいね」なんて具合に、アドバイスをしてくれるわけです。看護婦さんには悪いと思うけど、私はそういう考え方、評価の仕方が好きじゃない。別におもちゃに興味がないなら、ないでいいじゃん、と思う。
でも、看護婦さんに神妙な顔して「マズイわね」と言われると、自分が悪いことをしているような、親失格のような気がしてきて、そして、この子たちがどっかおかしいんじゃないかと不安になってきて、そんで思わず帰りがけに「練習用」のおもちゃを買っちゃったりする(^^;)。

でもね、こういう「基準」ってもう、ほとんどが Bull shit!だと思うんですよ。

だって、人間この先何十年も生きていくわけで、その長〜い人生を考えた時に、この生まれた直後1年やそこらの間の、それも何週間という小刻みの単位での早い/遅いが、どれだけの意味を持つんだろう?と考えると、ふとシラけちゃいませんか? 人間なんだから、いつかはおもちゃに興味を持ち出し、いつかは寝返りし、いつかは歩き出すわけですよ。なんでそれが「○週間め、○ヶ月め」じゃなきゃいけないの?って。そりゃ平均値は参考にはなるけど、ウチの子がその平均よりちょっとばかり遅れていることが、そんなに問題なの?って。各人それぞれに個性があるんだから、成長具合だって個性があっていいはず。彼女らの好きにさせてやってくれよって思う。

その基準から先天性の障害を早期発見して早期解決することは出来るかもしれませんが、どうもこういう基準にとらわれるあまり、我々親は要らぬ心配までさせられているような気がしてなりません。ちょっと看護婦さんはじめプロの人に「ちょっと遅れてますね」なんて言われようものなら、「身体のどこかに異常があるんじゃ?」と不安になるのが親心ですから。それが怖いから、無理矢理にでも「基準」に合うようにと親が努力してしまうんだと思う。

離乳食にしてもそうなんですが、「○ヶ月だからこれくらい食べなきゃ」なんてのは、まったく意味ないと思う。人間なんだから、いつかはミルクだけじゃなく、食べ物を食べるようになるわけです。それが何週間早かろうか遅かろうが、長い人生にどれだけ影響すんねん?とか思っちゃう。それに、多少栄養不足で何週間か成長が止まったって、これからどんどん成長するんだから、ちょっとやそっとの停滞、どうちゅうことないやろが、と。

ちょっと極論ではありますが、人間ってのは、子供時代よりも、成人してからの成長具合によってその後に差がうんと出てくるような気がしてなりません。同じ30才でも、成熟度という点でみると、もう悟ったような人と、いまだにティーネージャーみたいな人とがいるでしょう? そこには10才単位の差があるわけですが、どこで差が出たか?というと、結構大人になってからの人生経験や努力がモノを言っているんじゃないかと思うんですよね。それ考えたら、生まれた直後の数ヶ月の差なんて、なんぼのもんじゃ?と思う。離乳食を食べられるようになるのが他の子より1ヶ月早かったからって、歩けるようになるのが平均より2ヶ月早かったからって、その子の人生、それで豊かになるんかいな?と。それって、単なる親の自己満じゃないの?




本来、そういう「基準」ってのは、核家族化して少子化した現代の新米ママの不安を取り除くために設定されたものなのでしょう。育児に自信がない親にとっては羅針盤みたいなもので、基準に従っていれば「私のやってることはそう間違っていない」と自信がつくという。そういう機能を果たしているという意味では、必ずしも悪いことではないと思います。でも、その基準が本来以上の意味を持ちすぎると、かえって大事なものを見落としてしまいそう。特に、それが親の自己満足にすりかわってしまいがちという点では、怖い気がします。

私は私の個人的な自己満足を子供たちに押し付けたくないです。というか、私はこの子たちに対する期待ってものがない。カッコつけてるわけじゃなくて、何になってほしいとか、どういうふうになってほしいとか、考えても出てこない。日本語をマスターして欲しいとも、ピアノを弾いて欲しいとも、老後の面倒を見て欲しいとも、大学にいって欲しいとも、思わない(余談ですが、大学に行きたいのなら高校からストレートで行かず、一度社会に出てから行ったほうが実りが多いと思います)。

ただ、ひとつ、願いがあるとするなら、しあわせになって欲しい。「しあわせ」ってのは、主観的なものなので、環境や物理的な条件が整ったら必ずしも「しあわせ」になるってものではない。たとえば、学歴や地位やお金があっても、それがイコールしあわせに繋がるわけではない。その人によって「しあわせの条件」は異なります。その条件は子供たち自身が各自探していくものであって、親が押し付けるものではない。親として、できるだけ沢山の「しあわせになりそうな条件」を満たせるよう準備してやりたい、という気持ちはわかりますし、どうしたってそこには親の価値観が入り込むことは否めませんが。




ちょっと話は脱線しますが、私は「お受験」ってのがよく理解できません。なぜ、親は子供が小さいうちから勉強させて「いい学校」に入れようとするのか。子供が生まれてから少し推察がつくようにはなりましたが、それでも自分はやらないだろうと思います(数年後、やってたりして(^^;))。もちろん、「公立学校は荒れているから、勉強したい子が伸び伸び勉強できない」とか、「自信をつけてもらいたい」とか、「中学、高校受験で苦労してほしくない」とか、正当な理由はありますが、かといって、お受験によるデメリットがそれらのメリットでカバーできるとは思えないのです。その損失のほうが大きいとしか思えない。

最近、ヨーロッパで「子供時代に勉強ばかりしていた子よりも、遊んでいた子のほうが人生で成功している」というリサーチ結果が発表されたそうです。まあ、この「成功」という定義もなんだかなと思うわけですが(だいたい人生における成功というのは、他人に定義されるものではないだろう)、よくあるところの「いい大学を卒業して、いい職につき、いい給料をもらっている」というアレから、精神病罹患率、自殺率なんてのも調べたそうです。その結果、子供時代に勉強していた人はコミュニケーション方法がわからず、仕事でも成功していないし、精神病罹患率、自殺率も高いってことが分かったのだそうです。

こんなリサーチ結果を待たずとも、そりゃそうでしょう、と思っていた私ですが、やっぱりこうしてデータによって立証されるとちょっと安心したりします。少なくともコレによって、「お受験はデメリットが大きい」と公言する勇気が出ました(^^;)。
こんなのは、科学的に立証されていようがいまいが、人間の皮膚感覚からくる常識だと思うのですが、どうしてこんな当たり前のことすら公言しにくい世の中になっちゃったのでしょう? 




人間には成長段階に応じて、「やるべきこと」があるんだと思うんです。

子供はその成長過程において、友達と野っぱらを駆け回って遊ぶ必要がある。その遊びの中にある、ケンカや仲直り、仲間はずれ、という経験を通して、人は人とのコミュニケーション方法を学んでいく。それに、学習という面においても、遊びはとても重要だと思う。人間は、興味を持った時こそが学べる時なので、子供の「遊び」という時間には、教室の椅子に座って黒板眺めている時の学習効率をはるかに超えるものがあるはず。また、自然が持つ精神的な影響力、バランス・ヒーリング効果というものも、子供時代には特に無視できない要素だと思うし(友達とケンカして落ち込んでいる時、夕焼け眺めていたらそんなことどうでもよくなったりとか)。

だから、そんな子供の大切な時間と「やるべきこと」を、勉強ごときに奪わせてしまっていいのか?!と疑問なのです。子供にとって「遊び」はとっても大切な仕事なのに、その重要さが軽んじられていると思う。




1点、お受験賛成論の中で分かる気がするのは、「現代の子供を取り巻く環境が、お勉強が出来ないと自信をつけられないようになってしまっている」こと。昔はお勉強が出来なくても、かけっこが早かったり、絵が上手だったり、給食を食べるのが早かったりするだけで、評価され、尊敬されるところがありました。誰もが得意分野を持っていて、それなりに尊敬しあえる雰囲気があった。もちろん、いじめっこ、いじめられっこはいつの世にも存在するけど、いじめられる理由だってもっとバラエティに富んでいたんじゃないかって気がする。

ところが、今ではすべての価値基準が「お勉強」になってしまっている。人間、自己重要感がないと自信がつかないし、自信がないと何事もうまくいかないもの。だから、お勉強が出来ない子はお勉強が出来ないという理由だけで自動的に自信をなくし、すべてに負け癖がついて、ダメ人間化していっちゃう、という恐れがあるのではないか?と。これは分かる気がします。まあ、そんな有名校に入ったところで周囲が優秀すぎて、落ちこぼれになって逆に自信なくすってこともあろうかと思うんですが(^^;)。でも、いちおう「○○校」のお受験にパスしたってことが自信にはなるでしょうね。

だからといって、私は子供たちにお受験をさせたくないので、それなら、子供のために「お勉強だけが評価基準にはなっていない環境」を探したいと思う。今どき、そんな環境はないかもしれないけど、なければ、自分で作りたいと思う。子供がやりたいことをやりたいように伸び伸びできる環境。彼女たちの趣味にもよるので、どういう環境にしたらいいのか、今から計画するわけにもいきませんけど。その時がきたら、がんばりたいと思います。




え〜、思い切り脱線しましたが、「赤ちゃん時代の1〜2ヶ月の成長の差など、どーだっていいじゃんか」というハナシでした。

成長具合や平均値、基準を参考にするよりも、本人がハッピーかどうかを参考にしたほうがいいんじゃないかって気がしますね。もちろん、相手もナマモノですから、機嫌や体調が悪い日もありますが、総合して「いろいろあるけど、まあ、ハッピーなんちゃう?」って思えたら、親として自信もっていいんじゃないでしょうか。あんまり自信過剰でも大事なサインを見落としたりするかもしれないけど、自信9割、不安1割、くらいで丁度いいんじゃないかなあ。

最近、たくさんの育児情報が出まわっていますが、私はあまり読んでいません。なぜかというと、自信過剰だから読む必要がない(^^;)というか、興味が湧かないんですよねえ。ペラペラとめくっては見るけど、なんかピンと来ない。それにまた、「このくらいの月齢ならこういうのがふつうなんだ〜」みたいな基準に翻弄されるの、イヤだし。そういうの気にしないぞって言ってるけど、やっぱり見たり聞いたりしたら、少しは気になるのが「親心」というもんなんかもしれませんね。

子供たち見てたらハッピーそうだし、よく成長しているし、おまけに私たち夫婦もハッピーだし。だから、たぶん、私たちのやり方はそんなに間違っていないと思う。そんなふうに思えるから、自分ののーてんきぶり、怠慢ぶりを暴露するようなことを、書いていたりするわけですね。

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2001年3月3日:福島

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